「定形」との距離の取り方がどのようであるにせよ、「結果、絵が美しくなればどちらでもいい」、というのが大ざっぱな正解だとは思います。
「定形」を意識しすぎたがために、絵が形式化・パターン化して生命力のない表現になっては元も子もありません。しかし、だからといって
「定形」に内包するその花の独特の魅力を見逃した形で、あるがままの崩れた形をただ素直に描くことが必ずしも正解だとも思えません。
ユリや桔梗、花菖蒲などは、花自体に開花時の「決めポーズ」があり、「開きました!今がベストですよ!」としばらくそのポーズを維持してくれるので
絵の初心者であれ、その花の「定形」に迷うことはないと思います。
反対に難しいのは、花の開花から散るまで常に動き続けたり、開くそばから、先に開いた花びらが萎れはじめていたりする場合で
私にとっては山茶花がこれにあたり、「定形」を見抜くのが難しい花の第一候補です。
他にもストックや金魚草、スイートピーなどは、かなり意図的に「定形」を意識しながら形を捉える努力をしないと、ただのグニャグニャした曲線の
集合体の造形が出来上がってしまい易いと思います。
ただ、何を持って「定形」とするか、という点にも問題があります。
ひとつには科学的観点として、花の構造を理解する科学的な「定形」。
ボタニカルアートなどでは、一度花を分解して花の構造を理解することが、(科学的な意味で)花の正確な描写に近づく道と教えます。
(率直に言いますと、私はこの“科学的な正確さ”を物差しにする方向性は好きではありません。
「科学的な正確さの追及」と「人の琴線に触れる表現」の間には小さくない溝があると思うからです。)
また一方に、過去に表現として印象的にデフォルメされた花の造形がすでに市民権を得て、実際の花よりも親しまれている「定形」の存在を
無視できない場合があるような気がします。
花の表現には人類の歴史とともに積みあがってきた過去の素晴らしい文化財が多数あり、多くの優れた才能の持ち主によって
すでに幾度となく観察・表現、時にデザイン化された花の造形が一般化している背景があるように思います。
日本においては、特に江戸期に社会が安定し文化的に爛熟期を迎えたこともあって、江戸期からあった植物は
多くの絵師により絵画化・デザイン化されたものが存在しています。
今回の絵日記のスケッチの“藪椿”は、歴史的にかなりデザイン化されている花の一つのように思います。
私の中では、酒井抱一の十二か月花鳥図の1月「梅椿に鶯」の藪椿が、強烈な印象として記憶の中に残っており、
「藪椿はあんなに真っ赤じゃないんだけどなぁ。」とはいえ、遠目から観察すると、葉とのコントラストが強く感じられ、
あの抱一の赤色もひとつの真実のようにも思え、表現としては、ただ素直に描いた藪椿より椿らしく感じられるような気がするのです。
そのため、スケッチ中にどこまで赤を強調すべきか、あるいはすべきでないか、などという葛藤が心中渦巻いていたりするのです。
今回は結局、ビビッてしまってデザイン化に足を踏み込めず、観察ベースに無難なピンク主体の淡い色合いで描きましたが、
借り物ではない、自分なりの「定形」がいつか創れるようになったら本物だ、という思いはいつも心の片隅においてあります。
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「定形」を意図的に狙ってデザイン化し、造形要素の対比を強化した例
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大野俶嵩「白牡丹」(部分)
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酒井抱一 「十二か月花鳥図の1月」 宮内庁蔵 (部分)
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